- 2006-05-14 (日) 1:11
- コトノハ
「新潮6月号の梅田望夫×平野啓一郎の対談を読んで」というエントリーが、CNET Japanの江島氏が書いておられるのですが、そのエントリーを読んで、平野氏本人からのコメントがつき、さらにそれに応えての「私信」があって、さらに平野氏からのコメントがついている、という大変面白いやりとりが掲載されています。
ちょっと興奮しちゃった。あまりに面白すぎて。
平野氏といえば、「日蝕」で芥川賞を当時最年少でとった京大生という情報しか知りませんでしたが、ある時、ふと手にしたのは「葬送」。ショパンとドラクロワ、という単語に惹かれ読み始めたんですが、おそろしい長篇なのに飽きさせることなく最後までぐいぐいとひっぱるその筆力に驚いたものです。つぅか、この人上手いな!と。「日蝕」が大変難解な小説だと聞いていたので、少し敬遠してたふしがあったわけですが、「葬送」「高瀬川」に関して言えば全くそんなこともなく。
で、その平野氏の生のメッセージが、すごくよくって。あぁ、うまく言えない。
このコメントを受けての江島氏のエントリーにこんな言葉が。
それにしても、今回のコメント読んで改めて思ったけど、肩の力の抜けた編集されてない生の平野のコメントって、ものすごい洞察力とみなぎるドライブ感が最高に気持ちいいのね。てめーもブログ書けよ、こんな言葉を揮発させてしまうなんてもったいねー。(笑)
まったく。
わりと小難しい文章なので何回か繰り返して読まないとうまく理解できないところもあるんですが、(多分、まだちゃんと理解しきれてないところもたくさんあると思う)いくつか引用させていただこうと思います。ただ、文章というのは、抜き出してしまうと全く別の意味合いとしてとられることも多いので(よく新聞や週刊誌でされている手ですね。全文の中からいくつかの文章をつなぎあわせて作った文章は、元の文章とは全く受ける印象が違うので怖い)出来れば、全文を読んでみてください。
梅田さんの分類で言うと、ネット社会の三層ほどに分かれるであろう言説の階層の最下層というのは、「有益」性という意味では、無視されてしかるべきものとして、つまり「ないもの」として処理されるわけだし、「無益」どころかしばしば「有害」なわけだから、抑圧されるべきものなんだろうけど、僕はその三層は別々の人間たちがそれぞれに担っているわけじゃなくて、どんな人間の中にも内在している階層なんだと思う。そのどの部分で人とコミュニケイトしているか、したいと思うか、出来るか、ということなんじゃないかな。
そうですね、ある場所においては有害で無益な言葉を吐きかけている人間だからといって、mixiで、あるいは自分のblogにおいても別の層になりえない、というわけはないのだと思う。「どの部分で人とコミュニケイトしたいか」というのを、いつも瞬時に選び取りながら進んでいるんじゃないかな、という気はします。
その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。その「複数性」というのが、ここ数年の僕の創作の根幹だけど、「何がしたいか分からない」という一言で片づけられることも多くて、まぁ、なかなか難しいもんです。だけど、この作家は何時もこういう作品を書いていて、だからこういう人間なんだという、そういう怠惰で、粗雑な人間理解の枠組みに自分を落とし込んで、何が読書の楽しみなんだろうと僕は思う。そこには厳密な意味で他者は存在しなくて、単に自己の鏡像があるだけじゃないのかなと思います。
何かを決めつけてしまうと、もうそれ以上考えなくてもすむし分類するのが楽なんだろうな、と思う。ちょっと違うかもしれないけどさ、たとえば血液型とか星座とかで性格を決めつけるってのも同じ。あまりにも「怠惰」で「粗雑」な手法。例えば、知り合って間もなく、ほんの少し好感を抱いていたとしても、その瞬間に「好感」はぱっと塵となり消えてしまうことが、ときたまおこる。しかし逆に考えてみると「血液型や星座で性格を決めつけるから、だからこの人は怠惰で粗雑だ」と決めつけるのもまた乱暴な話だよなぁ、と思ったりして。うーん。
さらにもう少し脱線してみるが、「何が言いたいのかわからない」ものよりも「何が言いたいのかが明確にされている」ことが優れているとみなされる傾向はあるような気がする。これだけビジネス書とか自己啓発本が売れているのはそういうことなんでは?読みとったり、深く考えたりするより、「とりあえず結論」「過程よりまず答え」的思考があって、それに応えているのがそういう本なんだと思う。私は、読書にはそういうものを求めていないので読まないだけなのだが、こういった本を読む人たちは、「本」とか「読書」をどういう風に捉えているんだろうなぁ。某番組のラストじゃないけど、聞いてみたい。「あなたにとって読書とはなんですか」とか。(笑)
僕は必ずしも社交的ではないけど、割とそつなく人と交われる方で、それは十代からあんまり変わってないんです。だけど、中学、高校時代と、僕はずっと、今の言葉で言えば、敏感に「場の空気を読んで」、うまく人とコミュニケイト出来る一方で、自分の中には、そんなスムーズな対人関係には収まりきれない、いろんなろくでもない考えや、役にも立たない思いが満ちあふれていると常に感じていました。社会的に有用である、ということに、どうしても自分のアイデンティティを全的に賭することが出来なかった。そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分だと感じていたし、それをやっぱり表現したかった。それがまぁ、作家になった一番の動機です。
それで、僕は今、小説を書いていて、本当によかったと思う。僕は、親類や友人を含め、小説を通じて、初めて自分という人間を、十分に理解されつつある気がします。注意深くあえて書けば、それは「本当の自分」なんかじゃなくて、要するに、自分という一個の人間の複雑な組成、「複数性」を理解されつつあるという感動です。それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。僕はやっぱり、意識の有無に拘わらず、「普通の人」として社会的な人間関係に自分を結びつけるために、その多くの部分を日常のコミュニケイションから削ぎ落としていたと思う。今はその部分の存在を、僕も相手も、一種の前提としてコミュニケイト出来ています。
この部分はちょっと印刷して、切り取ってメモ帳にはっておきたいくらいいい文章だな、と思いました。私はもう何年も前から自分のサイトをもってて、あるいはチャットやメールで知り合った人たちもいてて。何年かしてて同じことをずっと思ってます。サイト上で書いている私は「私の一部分」であり「私そのもの」ではないし、実生活で見せる私もやっぱり「一部分」なんだと。それはずっと思ってますね。自分の考えている事や、気になった事なんかを赤裸々に書いたりしてても、それが私の全てであって、それが私の本当か、と言われると、やっぱりそうじゃないと思う。明らかに私はネット上に出すものを取捨選択しているし、実生活でも同じです。なので、両方を知っている人は一番近い部分にきてるんだろうな、とは思うんだけど、どちらにせよ、私自身がとても流動的で定まっていないのでなんとも言えない。
「納得のいく好き嫌いで…ずっといいと思う」ときっぱりと言えるのはすごいな。「その部分の存在を、僕も相手も、一種の前提として」か。私にはまだそれが出来てないんだろうな。多分。
そうして自分を、社会的な自己と、ネット上の自己とに分けて、しかも、後者をこそ、誰にも気兼ねなく、今日会った人の陰口だのなんだのを好きなように言える「本当の自分」だと考えるような生き方は、結果、日常の社会生活をますます希薄化させてゆき、他者からの理解を遠ざけてしまうんだと。
僕はもっと、梅田さんも言ってたみたいに、mixiとか、自分の周囲の友人知人にはブログの存在をdiscloseしている人たちについては、肯定的に語るべきだったと思います。彼らは、より深い人間関係を獲得していくんじゃないかな。
そうですね、私は他者(友人、知人)からの理解を寧ろ遠ざけようとしてるんだから、その通りだと思う。なんでしょうね、色々考えてるのを知られるのを照れくさいってのもあるし。そうじゃない理由もあるし。寧ろ私はmixiに関しては否定的な考え方なので。平野氏はネットでつながる人間関係は「深い人間関係」を築けない、という前提で話しておられると思うですが、さて、この「深い」というのはどこからなんだろう。ね。
まぁ、一度「新潮6月号」を読んでみたいと思います。
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